ソビエト連邦の最高指導者だったゴルバチョフといえば、現在40代以上の人ならほとんどの方が知っている政治家でしょう。
今も米露の関係はあまり良くないですが、当時はもっと最悪だった記憶もあるかと思います。
今回は、ソ連からロシアになった時の大統領であるゴルバチョフの今を調べてみました。
今は90代のゴルバチョフ、現役時代は凄い政治家だった
*画像出典:https://www.britannica.com/
1931年3月2日、現在でいうロシアのスタヴロポリという小さな農村でゴルバチョフは農民の子供として生まれました。
10歳の時に独ソ戦争を体験し、スタヴロポリもナチスに一時、占領されるなど何度も危険な目にさらされたそうです。
独ソ戦争が終わると、14歳にしてコンバイン(農機具)の運転手として働いていましたが、学校での成績は非常に優秀だったそうです。
あまりに賢かったため、地元自治体の推薦でモスクワ大学の法学部に入学。
大学では後に奥さんとなるライサ・モクシーモヴナ・チタリェンコと運命の出会いをしています。
大学在学中にソビエト連邦共産党に入党。さらに、在学中であった1953年、ゴルバチョフが22歳の時にライサと結婚しています。
大学を卒業した2人は、ゴルバチョフの故郷であるスタヴロポリに引っ越して、農業行政官を目指して勉強を開始。
農業行政官になると、地区書記という役職に就くなど、お役所でどんどん出世していきました。
1955年、ゴルバチョフはまだ24歳でしたが、スタヴロポリ市の第一書記になったゴルバチョフは、1962年にはスタヴロポリ地方の第一書記など地方から段階を経て、1971年には40歳にして党中央委員というソビエト連邦共産党の最高機関に選出されます。
一方で、政治家として活動する傍ら、スタヴロポリ農業大学の通信でさらに学びを深めて、農業経済学者の資格も取得していました。
農業に関して学者レベルの知識を持っていたゴルバチョフは、党中央委員では農業担当書記に抜擢されるなど、党内からの評価も常に高い水準にありました。
その後は政治局入りを果たし、農業以外での政策分野の経験を長年積んで、1985年、ゴルバチョフが54歳の時に党書記長に就任しました。
農村出身の農民が、国の最高責任者にまでなったのは凄い物語ですね。
ソ連の最高指導者となったゴルバチョフは、ペレストロイカと呼ばれる「再建」を次々に提唱。
レーガン大統領と米ソ首脳会議を行い、核軍縮交渉など共同声明を発表し平和に向けてソ連の立て直しを図ります。
さらに、チェルノブイリ原発事故をきっかけに積極的な情報公開、中ソ関係(中国とソ連の関係)の改善、日ソ平和条約の締結など、開けた政治を展開していきました。
そして1991年8月。
エストニアとラトビアの独立を承認し、パブロフ首相の不信任案が可決されるとソ連共産党の活動全面停止が決定。
これによりソビエト連邦は崩壊しました。
ソ連が崩壊すると、ゴルバチョフは国内のトップではなくなりましたが政治家としてはもちろん、財団や基金の代表への就任など多くの平和的な活動もスタートしました。
ソ連の政治を大きく変えたゴルバチョフ。
世界から見ると、今でいう北朝鮮のような立場であった当時のソビエト連邦は結果として崩壊してしまいましたが、国としての在り方はゴルバチョフが改善したと言っても良いでしょう。
現在のプーチン大統領が冷徹なイメージから、ゴルバチョフも怖いイメージを持っている人も多くいますが、かなり平和に貢献した人物で、ゴルバチョフがいなければ1945年から続いていた冷戦も終わっていなかったかもしれませんね。
引退後のゴルバチョフ
ソビエト連邦が崩壊し、ロシアに生まれかわったのですが、ゴルバチョフはソビエト連邦で最初で最後の大統領でした。(大統領制度が誕生して初代大統領になりながらもすぐにソ連崩壊したため)
もし、ゴルバチョフがソ連の崩壊させずにいれば、国のトップであり続けられたはずです。
恐らく、数十年は最高指導者として残り続けることが出来たと考えられています。
ソ連が崩壊し大統領ではなくなってしまってからは、1991年以降、政治活動や慈善活動、環境問題に取り組み始めたゴルバチョフ。
1996年にはロシア大統領選挙に無所属で出馬するも、わずか0.5%しか得票しませんでした。
立候補した11人中7位。当選したエリツィン大統領が2,600万票を獲得したのに対して、38万票しか入りませんでした。
落選は無所属というのもあったかもしれませんが、当選したエリツィン大統領も無所属。
もはや、その頃にはゴルバチョフの人気は影を潜めていたのかもしれません。
それでも政治家として活動を続けていたのですが、愛妻家として知られていたゴルバチョフは1999年にライサ夫人を白血病で失ってしまいました。
夫人を失ったゴルバチョフですが、その後も政治家としては活躍を続け、2001年にロシア社会民主党が設立されると党首となります。
しかし、ロシア社会党は現在の議席数は0で、今は解散した状態。設立時から、政権をとることもなく、不発に終わっています。
2004年にロシア社会民主党の党首を辞職すると、政界を完全に引退した形となりました。
その時は既に73歳。思想や実績などは評価されるも、年齢的な部分での否定的な評価が多かったそうです。
今の日本でも80代の議員は多くいるものの、政治家はいつの時代もある程度の若さが求められますね。
政界を引退したゴルバチョフは、ことあるごとにメディアにフォーカスされています。
例えば、プーチンが当選したロシア大統領戦でも意見を求められていますし、南オセチア紛争についてもロシアとロシア軍の立場から意見を公表していました。
他にも、アメリカが推し進めていた東欧ミサイル防衛構想に対しても「冷戦を繰り返さないようにしたい」と発言しているなど、平和的に物事を解決するための発言が目立ちます。
引退後のゴルバチョフは日本にも何度も足を運んでいます。
大阪工業大学、創価大学、日本大学などでも講演を行っており、いくつかの大学からは名誉博士号も授与されました。
テレビ番組でも、2005年には徹子の部屋、世界一受けたい授業にもそれぞれ出演。
小泉純一郎、沖縄県の元知事である翁長知事、鳩山由紀夫元首相などとも交流があり、創価学会の池田大作会長とは友人としても知られているそうです。
引退後は国際的にも平和的な活動を続けていて、ゴルバチョフの偉大さが分かりました。
それでは、現在のゴルバチョフはどのように余生を過ごしているのでしょうか。
引退後のゴルバチョフ
現在、ゴルバチョフは90歳を超えてしまいました。
もちろん、何か仕事をしているようなことはありません。
普段は元大統領だけあって、日常でSP(護衛)が周りについている生活を送り、奥さんが亡くなって20年以上経っていますが、再婚はせずに生活しています。
現在もゴルバチョフは奥さんのことを引きずっているようです。
90歳も超えてしまっているものの、痴呆などはほとんどなく、今のところ健康状態も良好。
2021年3月の誕生日には世界各国の政治家から祝電などが入り、大きく報道されていましたが、コロナ禍による自主隔離の生活をしばらく続けていたそうです。
日常からSPに囲まれた生活を続けていたので、隔離生活は徹底していたのでしょうね。
また、ライサ夫人との間に生まれたイリーナもゴルバチョフと共にメディアに登場することもあります。
*画像出典:gettyimages
一人娘のイリーナ(結婚して名前はイリーナ・ビルガンスカヤ)は、現在、科学者・医者として活躍中。
今のゴルバチョフは色んな活動を引退していますが、ロシアを含めて各国からの取材などに応じるなど、メディアにもよく登場しています。
日本でも現在は名前を聞くこともしばしば。
というのも、北方領土問題が今も解決していないからです。
【北方領土問題】
日本は、1855年の日露和親条約によって日本の領土と確定したという認識。さらに、戦後の日ソ中立条約に違反し、北方領土に侵攻した。アメリカも日本の領土という認識である。
ロシアは、第二次世界大戦の結果として北方領土を獲得しているという認識。ヤルタ協定やポツダム会談によって戦勝国のアメリカからも約束されていた。
日露間の主張がどちらも正しいため、ソ連のこれまでの最高指導者は北方領土問題について明言していませんでした。
しかし、ゴルバチョフは、文書で正式に北方領土問題を認めた人物。
一言でいえば、ゴルバチョフの時代から北方領土問題は続いており、現在も見識をゴルバチョフに尋ねられることがあります。その度に、メディアに登場して見解を述べています。
ゴルバチョフは現在も、北方領土はロシアの領土だという主張をしていますが、平和的な解決を求めています。
ちなみに、2019年には全ての国が核兵器の廃絶を宣言すべきと唱えています。現役時代から大量の人が亡くなるような兵器に対して否定的だったので、一貫して平和主義、民主主義を主張しています。
ゴルバチョフの現在は?2022年8月に死去した。
2022年8月30日、冷戦を平和的に終結へと導いたミハイルゴルバチョフが亡くなりました。
死因は発表されていないのですが、腎不全で入院していた亡くなる2カ月前に報道されており、病死であるとの見方が強いです。
ただ、ロシアとウクライナの問題が激しくなり始めた時期で、ゴルバチョフはプーチンを本人の前でも批判するほど意見の食い違いを見せていました。そのため、本当の死因を勘ぐる動きも見られました。
なお、1999年に亡くなった奥さんのお墓の隣に一緒に埋葬されるということです。
ノーベル平和賞を受賞した偉大な政治家。
現在のプーチン政権を批判していましたが、これまでの政治で救われた人はたくさんいると思います。
今後も、平和主義者の政治家として、歴史上の人物として世界でも人々の記憶に残るでしょう。