日航機墜落事故の生存者の現在。川上慶子さん、落合由美さん、吉崎さん親子の今

1985年8月12日に群馬県の御巣鷹の尾根に墜落してしまった日本航空(JAL)123便。
ご高齢の方はまだ記憶に新しいと言ってもいい時代に、多くの著名人を含む520名が犠牲になった航空事故です。

テロを除き、それ以来、世界でもこれ以上の人が犠牲になる航空事故は起きていませんが、そんな悲惨な事故でも助かった4人の生存者がいます。

あれから約40年ですが、その強運の4名は現在どうしているでしょうか。

日航機墜落事故とは?

1985年8月12日の月曜日。
JAL123便、羽田空港から伊丹空港に18時00分に出発した航空機が墜落したという、日本史上最悪の航空事故です。

日本航空123便墜落事故、日航ジャンボ機墜落事故など、名称はさまざまです。

東京と大阪を結ぶ飛行機で、お盆シーズンという事もあり、当然に満員でした。

機体はボーイング747SR-46という飛行機で、事故の11年前となる1974年に製造されたものでした。

*ボーイング747SR-46

飛行計画としては、羽田空港を18時ちょうどに出発し、南西に進んだのち、伊豆諸島から西に巡航し、和歌山県串本町上空辺りで北西に進路を変更して伊丹空港には18時56分に到着する予定。

離陸後の18時24分に、静岡県南部の上空を飛行中に、上空7200mあたりで衝撃音が発生します。

直後に緊急救難信号を発信して、東京航空交通管制部が受信し、しばらく交信を続けながら安全に緊急着陸をするために羽田空港に引き返すことをすぐに決定しました。

Youtubeに生々しい音声と墜落までの飛行機の状態のイメージがアップされておりますので、こちらをどうぞ。

爆発音の2分後、18時26分には機内アナウンスで酸素ボトルの用意が客室乗務員に指示されます。

18時27分には客室の気圧が減少していることを示す警報音が鳴り響き、その1分後には機長は航空交通管制部に「操縦不能」を伝えるほどの事態に発展していました。

18時31分、遂に客室に酸素マスクの着用が提案され、その頃には客室の収納スペースが破損するなど、危険な状態になっていました。
ただ、生存者の証言によると、女性よりも男性が取り乱していたらしく、大混乱というほどもなかったそうです。

その後は、18時40分ごろになると、富士山東麓を北上しては山梨県大月市上空で急な右旋回をし、羽田空港に向かうものの東京都多摩市付近の上空で左旋回をして群馬県の方向に向かい始めました。
高度も6700mあたりから1800mあたりまで急降下していましたが、多摩市上空から群馬県に向かう時の高度は多少安定していたそうです。

上空1800mあたりでは高度は保っていたものの、操縦が出来ない状態になり、18時46分には機長が「これはダメかも分からんね」と発言していたことが記録されています。

その後、高度を上げることには成功するものの依然として操縦は安定せず、18時56分には上空3000mから1600mまで再び急降下。

群馬県の山岳地帯はそもそも標高が高く、高度を上げなければ山に激突してしまうのですが、残念ながら18時56分30秒ごろ、群馬県の御巣鷹の尾根に墜落してしまいました。

パイロットの墜落直前の「もうダメだ」という音声が非常に生々しく、涙が出そうになりますね。

救助開始まで11時間以上もかかった

救難信号を機長が発信してから、墜落までの約30分で、空港や管制塔などだけでなく米軍や報道機関などにも情報が配信されていました。

しかし、墜落した時間は夜の7時頃だったこともあり、暗くなり始めた時間です。

通信が途切れていたため、墜落地点をピンポイントで判別する方法がなく、軍の飛行機や戦闘機、米軍の輸送機、報道機関のヘリコプターが墜落地点を探し始めました。

深夜までに墜落の衝撃で起こった思われる火災を確認したものの、辺りは真っ暗なために墜落現場の確実な確認がなかなかできない状況が続きました。

なんと、日の入り時刻となる翌朝5時00分に墜落現場を確認

8時30分にようやく長野県警のヘリコプターが機動隊員2名を降下させて、救助が開始されることになります。

後に、生存者の証言で、墜落直後は多くの人が生きていたという事が分かっています。

墜落した場所が森の奥地で、交通手段が空からしかなかったことが救助を遅らせてしまった原因だったことは間違いありません。

さらに、事故機には、振動を防ぐための放射性物質が使われた部品が大量に搭載されていて、放射能汚染を引き起こす恐れもあったことから、捜索に向かった陸上自衛隊の部隊はすぐに現場に入れなかったという情報もあります。

もちろん、懸命に墜落を回避しようとした操縦士や、捜索した方々には尊敬の念しかありませんが、墜落した場所が悪すぎました。

未曽有の大事故だったうえに、著名人も多く犠牲になる

日航機墜落事故といえば、歌手の坂本九が犠牲になったとしても有名です。

実は、坂本九の他にも多くの著名人が亡くなっています。

坂本九・・・「上を向いて歩こう」などで知られる超大物歌手。元マネージャーの選挙応援のために大阪に向かうために搭乗していた。43歳だった。

中埜肇・・・阪神タイガース球団社長。オーナーの私用により代わり、常務の石田一雄さんとともに会議で東京に行った帰りだった。63歳。

浦上郁夫・・・ハウス食品工業の2代目社長。父親の墓参りのために大阪に向かうために搭乗していた。47歳だった。

北原遥子・・・宝塚の女優。24歳という若さで犠牲となった。

竹下元章・・・元広島カープのキャッチャー。高校生の息子の応援のために甲子園に向かう途中だった。47歳。

他にも大企業の役員など多くの著名人が搭乗しており、犠牲となっています。

また、この123便に搭乗する予定だった有名人として、明石家さんま、稲川淳二、勝谷誠彦、逸見政孝、麻実れい、故・ジャニー喜多川、少年隊のメンバー3人などがいますが、満席だったこともあり多くの人が難を逃れています。

たった4人の生存者。救出されたのは実は7人だった。

ジャンボジェット機が墜落して、生きているだけでも凄いことですが、それでも墜落直後は何名か生存していたと言われています。

これは、後に生存者となる川上さんという方が証言しているのですが、墜落直後は妹と父親とは会話ができる状態で、他の人の声も聞こえていたそうです。

自身が救助されるときもまだ、妹と父親が生きているのか気になっているほどでした。

もし、墜落後にすぐに救助に行ければ、声などが聞こえたりしますので、生存者の数はもっと多かったかもしれません。
どうしても、山奥に墜落してしまったことが悔やまれますね。

ところで、救出された人が全員助かった訳ではありません。

実は、事故直後は7人(一部の報道では8人)の乗客の救出に成功していたそうです。

*出典:http://www.marino.ne.jp/

この記事で注目したいのは、「吉崎博子・美紀子さん、川上慶子さん、少女ら4人も」という部分。
少女ら4人というのが、落合さん含む他の3名ですが、落合さんは事故当時20代でしたので、3名の中には女の子が含まれていることが分かります。

朝日新聞の社会部記者は、「担架が必要ないほど元気な女の子で、救助隊員に抱かれている」と、無線報告していますが、その後はこの女の子の情報はなくなってしまいました。

さらに、事故当時の11時ごろに、小平カメラマンという方が、自衛隊員によって運び出されている男の子を確認しています。

この子については、その後の情報は一切なく、残念ながら回復しなかったのだろうと考えられています。

また、8人を救出したとの情報もありましたが、川上慶子が発見当初、髪が短かったため男の子だと思われたせいで、重複して数えられた可能性があります。

いずれにしても、救助がもっと早ければ、もっと多くの人が助かったはずですね。

それでは、生存者の4名は現在・・・。
ひとり一人、徹底的に調査してみました。

事故生存者の現在について

まず始めに、日航機墜落事故の生存者の現在ですが、事故直後は取材に応じることがあったものの、本人たちは心に深い傷を負っているために、数年後からは一切、取材に応じていません。

どのメディアも、現在の姿や顔を写真でおさめることは出来ず、もはや、倫理的にも取材すること自体がご法度になっています。

それでも、近親者などの取材から、近況を報じるメディアもいくつか確認されたため、今回は、川上慶子さんの現在、落合由美さんの現在、吉崎博子さんと美紀子さんの現在を、ネット上の情報を全て漁って、近況をまとめました。

なお、生存者の事故から現在までは色んな憶測や噂が流れているのも確認されています。
ご本人たちの名誉の回復のためにも、根拠のない噂やデマなども訂正しながら、確実な現在のみを掲載します。

川上慶子さんの現在

生存者の4人のうち、もっとも大々的に報じられた川上慶子さん。

当時は中学1年生の12歳でしたが、川上さんの容姿があまりに美人だったこともあり、救出後もメディアがこぞって追いかけていきました。

川上慶子さんが救出されるシーン

川上さんは、父親(当時41歳)と母親(当時39歳)と、妹の咲子さん(当時7歳)と123便に搭乗。

北海道旅行の帰りの便だったそうですが、町議会議員の父親と保健師だった母親、妹だけでなく、部活動で旅行には参加できなかった兄の千春さんの、ごく普通の5人家族でした。

まさか、史上最悪の事故に巻き込まれるとは・・・

前述の通り、墜落事故直後は父親と妹の咲子さんは会話をできるほど生きていたそうです。
父親は次第に会話をしなくなり、咲子さんは何かを吐しゃし、その後は息絶えてしまったと語っています。

川上慶子さんの証言は多く、その中でも気になるのは、「事故後にヘリコプターが真上まで来て、暗闇の中でも赤い光も見えた。これで助かると思ったと皆で話をしていたけど、ヘリは引き返した。でも、これで場所が分かったからたくさん助けに来てくれると話していたものの、それきり来んようになって、そのうちに皆話さなくなった」という証言。

実は、事故から10年後に元米兵の証言によると、レスキュー隊が到着するもっと前に、米軍のヘリが現場を特定して到着したことが分かっています。しかし、「日本側が現場に向かうので帰還せよ」という上官の指示が入り、救助活動を断念したそうです。

証言は見事に一致するのですが、何故、米軍がすぐに救助しなかったのか、多くの憶測があり、「123便は在日米軍により誤爆された」という噂が流れていました。
事実はどうなのか分かりませんが、間違いなく川上慶子さんの証言通り、その時に救助活動が行われていればもう少しは生存者がいたかもしれません。

さて、川上慶子さんのその後ですが、多くのメディアに追いかけられる日々を送ることになります。

*画像出典:オークファン

入院中もメディアが押し寄せ、笑顔を見せただけで雑誌の表紙になるほど、とにかく注目されていました。

ただ、記者たちは取材を自粛するように言われていたものの、白衣を着て病院の医師に成りすましたり、窓から侵入して写真を撮ろうとする記者まで現れるなど、あまりに酷い取材でした。

川上慶子さんは、両親と妹を事故で亡くしてしまいましたが、運よく搭乗しなかった兄と、島根県の祖母のもとで生活することになります。

その後も取材は多く、全て断っていましたが、あまりに美少女だったためにストーカーまがいの行為も多く、10年近くも多くの被害を受けてしまいました。

当時の川上慶子さんは、「こんなことされるなら、あの時にお母さんたちと一緒に死んでしまっていたら良かった」とも語るほど酷かったらしく、PTSDのような症状も出ていたそうです。

就職と結婚

川上慶子さんは、保健士だった母親の遺志を継ぎ、看護師となりました
これは結構大きく報じられています。
1995年の阪神大震災でも看護師として活躍したそうです。

社会人となった川上慶子さんは、普通の生活を送れるようになっていました。
結婚はもちろんしています。相手は、趣味のスキューバダイビングのために訪れたアメリカで出会ったアメリカ人男性です。

2002年の秋、川上慶子さんが30歳になる頃に、結婚式を挙げています。

現在は、どこか詳細ははっきりと分かりませんが西日本に住んでいて、3人の息子さんもいるとのこと。旦那さんは日本で会社員をしているという情報もありました。

また、事故後はしばらく飛行機は乗れなかったそうですが、アメリカには飛行機で行っていたそうです。

それでも、事故の話題になるとPTSDの症状がでるそうで、未だに心の傷は癒えていないのでしょう。

現在ではないのですが、2015年には、川上慶子さんのお兄さんがNHKの取材に答えています。

*画像出典:NHK

俳優と言ってもいいくらいの整った顔立ちですね。

兄の千春さんは、1学年しか違わないお兄さんで、現在は家族を持って介護の仕事をしています。
また、島根から離れて、両親と過ごした街で暮らしているそうです。

川上慶子さんの現在の写真等はもちろん、みつかりません。
むしろ、みつかったとしても、ご本人の意思を尊重して掲載できません。

国際結婚をして、息子を3人も育てている川上慶子さん。
今後は少しでも穏やかで、人一倍の幸せを築いていってほしいですね。

落合由美さんの現在

落合由美さんは、事故当時26歳。

日本航空のアシスタントパーサーという職(経験を積んだ客室乗務員)についていましたが、事故機に搭乗したのは大阪の実家に帰省するためだったそうです。

事故の8か月前に入籍していたそうですが、普段は東京の本航空株式会社客室乗務員女子寮、通称スカイハウス(品川区港南)に住んでいて、お盆休みを利用した帰省の予定でした。

当日は乗客という立場でしたが、もともと飛行機に精通した客室乗務員だったこともあり、落合由美さんの証言は特に注目されました。

中でも→こちらの記事は、かなりリアルに飛行機の異常発生から墜落、救助までが記述されています。

落合さんの証言をまとめると以下の通りです。

・耳が痛いほどのパーンというピストルのような音が響くとほぼ同時に、酸素マスクが落ちてきた。

・その音と同時に白い霧のようなものが煙ったが、すぐに消えた。

・その後は機体の揺れはほとんどなかったが、マスクや水上に着陸したときのための救命胴衣を着用し始めた。

・男性客は「大丈夫か?」と慌てる様子が見られたが、女性は意外と冷静だったのが印象的。

・後方のトイレの天井が外れるなど、破損が見られたが、外が見えるほどの破損ではない。

・しばらくは飛行機が左右に傾いたりするものの、激しく揺れるという事はなかった。

・富士山が近くに見えた。その辺りで頭を下げて墜落に備えた。

・墜落の直前は激しい急降下で堕ちていった。髪の毛が引っ張られるほどの勢い。

・墜落の衝撃は一瞬。回転したという感じもなく、一度だけの衝撃だった。

・墜落直後は、子供の声など多くの声や、多くの荒い息づかいが聞こえた。

・一度ヘリコプターが来たのに気付いたが、去って行った。

事故調査委員会は、この落合さんの証言を非常に貴重なものと評価していました。

また、川上慶子さんの証言と一致する点も多かったのも特徴的でした。

発見された時は、全身打撲に加えて、骨盤や腕など複数を骨折していた落合さん。
なんと、手術では合計100か所以上も縫ったそうです。

病院に運ばれると、父親と旦那さんがお見舞いに来たそうですが、墜落事故で生きていた新婚の妻を見た旦那さんは本当にほっとしたかもしれません。

アシスタントパーサーだった落合さんですが、その後、客室乗務員として仕事に復帰したのか、詳しく分かっていません。
定年まで働いたという情報と、復帰したという情報が、どちらも確定事実のように掲載されており、真実は不明です。

ただ、日本航空の社員に講演会を行ったという情報があり、そちらは本当っぽいです。
何度も断り続けていたそうですが、安全意識を共有した方が良いという考えから、何年も経ってからようやく講演を行ったそうです。

それを考えると、客室乗務員としての復帰はしていないというのが正しいでしょう。

落合由美さんは、現在すでに60歳を超えています。

2015年の取材で、長女と次女の二人の娘さんがおり、4人家族だそうです。

住まいは大阪府内という事が分かっていますが、近親者は取材を断るように決まっているという事で、一切取材を受け付けていません。

吉崎博子さんと美紀子さんの現在

旦那さんと息子さん、もう一人の娘さんは犠牲になってしまいましたが、唯一、親子で生存した吉崎博子さん、美紀子さん

5人家族で、5人とも123便に搭乗しており、事故当時は博子さんが34歳、美紀子さんが8歳という若さでした。

事故直前まで博子さんはウトウトし始めていたそうです。

機内でドーンという音と同時に、白い煙が立ち込めて、酸素マスクが降りてきたと語っています。

また、飛行機が急降下する様子や、客室乗務員が「大丈夫ですから!」と何度も言っていたこと、亡くなってしまう旦那さんが、「子供の前だからしっかりしろ」と励ましてくれたことなど、鮮明に覚えていたそうです。

機内の様子を証言していましたが、子供を3人も乗せていて、自分のことや他の人のことよりも、子供のことが心配で仕方なかったでしょうね。

墜落直後は、博子さんは気を失って、目覚めた時には夜中になっていたそうです。
さらに、その時は息子さんの充芳さんの「お母さん」と呼ぶ声が聞こえてきたそうですが、姿が見当たらず、やがてその声は聞こえなくなったと語っています。

眠りそうになると、同じく助かった美紀子さんが「ママ、眠っちゃだめだよ」と声をかけてくれたおかげで、救助が来るまで気力を持ち続けることが出来ました。

博子さんも美紀子さんも、発見時には複数の骨折や全身打撲、顔面挫創など、ものすごく重傷でした。
特に、8歳の美紀子さんは、脈も弱っているほどで、奇跡的に助かっています。

墜落事故の後

連日のようにメディアが押し寄せていたため、11月14日に親子で会見を開きました。

会見では多くのことを話しましたが、会見が終わってもメディアに追われる日々は続きます。

娘は助かったとは言え、夫と息子、もう一人の娘を失った吉崎博子さんにとって、事故後も地獄のような日々が続いてしまいました。

また、娘の吉崎美紀子さんは、顎の怪我による手術跡が原因で、いじめにもあったという情報もありました。
真贋は定かではありませんが、事実としたらとんでもないことで、いくら子供とは言え、何かしらの罰が必要だと思います。

現在の吉崎博子さん、美紀子さん

吉崎博子さんは、事故後も何度かインタビューには応えていましたが、最近の情報は一切ありません。

美紀子さんに至っては、事故当時は8歳なので、インタビューしても情報は少ないでしょうし、大人になって顔も全然変わっているはずですので、目撃情報なども皆無です。

ただ、事故の後からは、東京都内に2人で生活していたという情報がありました。
現在は、美紀子さんも50歳前後ですので結婚している可能性もありますが、結婚の情報も一切ありません。

博子さんは70歳を軽く超えていますが、ご健在のようです。

親子二人で生活しているという情報も多くあるものの、実際にはどうなのかは不明。

2004年9月号の日刊ゲンダイに掲載された取材には、「吉崎博子さん美紀子さん親子は、ある宗教の信者だったから助かった」という情報を否定している記事がありました。
「あんな事故を利用する人たちもいるんだなって。」と答えているので、宗教に入っていたのはデタラメだという事が分かっています。

その後の取材はほとんどなく、吉崎さん親子は平穏な生活を送っていることを祈るばかりですね。

現在の生存者たちが、一切取材に答えない理由とは?

毎年のように事故のあった8月12日になると、テレビなどで123便の事故を振り返る報道があります。

しかし、生存者4名のうち、誰一人として、取材などは受けず、テレビや新聞、雑誌での露出は一切ありません。

事故を思い出したくないという理由かもしれませんが、事故直後は取材に答えていたにもかかわらず、取材拒否になった理由について、多くの憶測が流れています。

・123便の墜落には深い闇が隠されている

・生存者が口止めされている衝撃の事実が存在する

・救助が遅くなった原因に繋がる事実を、生存者たちが知っている

などのように、令和になった現在においてもずっと、多くの噂が囁かれています。

取材に答えない理由は、事故を思い出したくないから。というのが一番大きいそうです。

40年が経とうとしている現在でも、人が抱えているトラウマは大きく、精神的な病は治りません。
死ぬほどの恐怖と、遺体に囲まれながら生き残ったという事実などを思い返すのは、やはり生存者にとってもひと時でも思い出したくないのでしょうね。

ただ、家族や近しい人物も取材には応えないように言われているらしく、その辺りは闇を感じてしまいます。

今後は何か新しい事実が判明するかもしれません。

その時が来ましたら、生存者の現在も明確になってくるでしょうし、こちらのページで新情報を追加していきます。