野澤正平さん(山一証券の号泣社長)の現在!複数の企業の役員を務めたその後

かつて、日本最大の業績を誇っていた山一証券。
当時は野村証券以上の主幹事会社数を誇っていて、日本の経済を支えていた超大手証券会社です。その山一証券といえば、不正会計が発覚して創業100周年で廃業を発表したことで有名ですが、特に有名なのが涙の記者会見を行った野澤正平氏ではないでしょうか。今回は、野澤正平氏の人柄やその後から現在に至るまでを調査しました。

野澤正平とは?

*画像出典:https://twitter.com/

1938年4月3日生まれ、長野県出身。

8人兄弟の4人目として生まれ、家族が多かったこともあり、裕福な暮らしではなかったそうです。高校(長野県屋代高校)卒業後は3年ほど農業に従事していました。
畑仕事をしながら勉学に励み、21歳になる頃に法政大学に入学します。

法政大学卒業後、1964年に山一證券に入社

山一の営業職で常に上位の成績を収めており、50代を過ぎてからは金融法人営業本部長、名古屋や大阪の支店長、常務取締役、専務取締役などに就任して、どんどん出世していきます。

そして、1997年、東大出身者・大蔵省担当を経験した人物しか社長になれていなかった山一で、最後の社長に抜擢されました。

山一を潰したのは野澤氏だったのか?

山一証券が廃業したときの社長として有名な野澤正平氏ですが、一部では「山一証券を潰した最後の社長」という風に見ている人も少なくありません。

実際は全く違います。

野澤正平氏が社長に就任する前の社長である三木淳夫氏、その前の行平次雄氏の頃(1992年)から赤字が続いていました。

1994年は、何とか黒字となりましたが、1995年は阪神大震災の影響もあり、500億円を超える赤字、1997年は特に酷くて、1,647億円もの大赤字となってしまいました。

おまけに1997年には、前社長の三木淳夫氏は、証券取引法違反、粉飾決算の容疑などにより逮捕・起訴され、企業のイメージも最悪です。

そんな中に、山一の社長に抜擢されたのが野澤正平氏だったのです。

この状態から経営を立て直すのはほぼ不可能で、一部では「廃業前に野澤さんは社長という任務を押し付けられた」とまで言われていました。

そして、野澤氏が社長に就任してからは、山一が2,600億円という巨額の負債を抱えていたことが判明。帳簿に記載されていなかったため、野澤氏は社長になって初めて知ったのです。

野澤氏は、事業を縮小したり、大手外資系の企業と提携するなど、あらゆる手を使って再建しようとしましたが、メガバンクからの融資などの支援も受けれず、大蔵省などの国からの支援も受けれずに廃業せざるを得ない状態になってしまいます。

そして、25年以上経った現在も記憶にあるあの会見が行われました。

山一が廃業に追い込まれたのは、野澤氏が社長に就任する前から続いていた負債を隠し続ける隠蔽体質に他なりません。

そして野澤氏が社長になってからはどうすることもできない状態だったので、野澤氏には全く非がありません。

それなのに、涙を流しながら「社員は悪くないんです。どうか、一人でも二人でも助けてください」と、強く訴えていました。
自分は一切悪くないのに。

こういったこともあり、記者会見で謝罪した野澤氏を悪者のイメージを残してしまっている一方、しっかりと中身を分かっている人は「社員を大切にする最高の経営者」と評価しています。
ただ、現在では、野澤氏に対して悪者の印象を持っている人はほとんどいないと思います。

野沢正平氏の山一が廃業してからのその後

1997年に廃業を宣言して、1999年に山一の自己破産宣告を行い、山一證券の社長としての任務を終えた野沢正平氏。

その後、2000年に名古屋支店の支店長時代に上場を勧めたコンピューター周辺機器メーカーのハギワラシスコムの子会社であるシリコンコンテンツの会長に就任しました。

そして同時並行で、インターネットコンテンツ制作会社のデジタルガレージ(今は上場企業)の顧問を務めていた時期もあります。

約3年後、2003年には大木建設に特別顧問として入社。

2004年にはセンチュリー証券(のちの日産センチュリー証券。今の日産証券)の社長に就任しました。
ちなみに、日産証券は株も扱ってますが、商品先物がメインの会社で、自動車メーカーの日産とは全く関係がありません。

センチュリー証券の社長業と並行して2006年には日本ユニコムの取締役に就任。

2010年、ウィングメディカルの取締役に就任。

2011年マーキュリースタッフィングの取締役に就任。

2011年に1年だけスターリング証券の顧問に就任。

2020年3月、G-Factoryの取締役に就任。

やはり、山一證券の社長にまで上り詰めた実績は凄くて、金融企業だけでなくてIT関連、建設業、人材派遣業などのいろんな会社の役員になっていました。

在籍期間が短いのは、それぞれ実績をしっかり残した証左と言えそうです。

大卒で山一に入社してから、約35年も山一に在籍していたのですが、60歳を超えてからこんな多業種で複数の企業に役員として入ることは本人も想像していなかったでしょうね。

それでは、現在の野沢正平氏はどうしているのでしょうか。

現在の野沢正平さんは、病気で引退?

既に80歳を超えた野沢正平さん。

同氏の仕事は2020年にG-Factoryという会社に入ったのが最後の仕事となりそうです。

G-Factoryは、飲食店のコンサルティングを行う会社で、東証グロースに上場している大きな企業です。

役員の就任や辞任についてもホームページなどで公開しなくてはならないのですが、2023年8月31日にこのようなお知らせがありました。

取締役の辞任に関するお知らせ

1.辞任する取締役
野澤 正平

2.辞任年月日
2023年8月31日

3.辞任の理由
健康上の理由によるものであります。

なんと、健康上の理由で退任することが発表されました。

野澤正平氏は、この時すでに85歳。

さすがにこれ以上の仕事は難しいということだったのでしょうが、「健康上の理由」というのが気になりますね。

このような場合は「一身上の都合」と表現されることが多く、明確に健康上の理由と表現しているということは、何かしらの病状が表れたことかもしれません。

また、この時期、G-Factory以外での仕事は確認されていませんので、この任務をもって最後の仕事になる可能性が非常に高いです。

別な仕事をするのならば「一身上の都合」という表現にしていたでしょうから、健康とは言えない状態であることは間違いないと見ていいでしょう。

人望が厚く、いち営業マンから山一のトップに上り詰めた実力。
そして金融の知識や経済界での人気もトップクラスの野澤正平氏。

今後はとにかく元気になって頂いて、また声だけでもいいから表舞台で輝く姿が見たいですね。

また野澤正平氏の最新の情報が入り次第、更新します。