ロベルト・バッジョの現在。引退後にサッカーから離れた今

かつて「イタリアのマラドーナ」とも言われたスター選手、ロベルト・バッジョ。
独特な髪型と映画俳優のようなビジュアルで、1990年代のサッカー界のスーパースターでした。

現在は引退してしまって、サッカー界で名前を全く聞かないバッジョ。元スター選手の今をフォーカスしてみました。

ロベルト・バッジョの活躍と引退まで

*画像出典:https://www.italy24news.com/

Roberto Baggio(ロベルト・バッジョ)バッジオとも表記されます。

1967年2月18日生まれ。
8人兄弟の6番目として誕生。弟のエディ・バッジョもサッカー選手でセリエBで活躍しています(エディはセリエAでの出場は無し)。
イタリアの北部にあるカルドーニョという、現在人口1万人程度の小さな町出身です。

子供の頃からサッカーにおいて抜群の才能を発揮していたバッジョ。

9歳で地元であるカルドーニョのチームに入ると、13歳までそのチームで活躍。1試合で6ゴールを記録したり、ズバ抜けていたそうです。

ヴィチェンツァ時代のバッジョ

イタリア国内のスカウトはまだ13歳のバッジョに群がったのですが、13歳でヴィチェンツァのユースチームに300ポンド(当時の為替で日本円で言うと15万円くらい)でバッジョを売却。

ヴィチェンツァのユースでは1985年まで、つまり18歳までプレー。

フィオレンティーナが150万ポンド(当時の為替で約6億円)で買収したので、ヴィチェンツァはたった5年でバッジョだけで5億円以上の利益を出しています。

フィオレンティーナで大活躍をすると、その後はイタリア国内で多くの移籍をしています。

フィオレンティーナ(1985年~1990年)

ユベントス(1990年~1995年)

ACミラン(1995年~1997年)

ボローニャ(1997年~1998年)

インテルミラノ(1998年~2000年)

ブレシア(2000年~2004年)

1990年代のイタリアのサッカー(セリエA)は、世界最高峰のリーグと言われていました。

現在はスペインのサッカー(リーガエスパニョーラ)が世界最高峰と言われていますが、当時のセリエAは世界中から各国の優秀な選手が集まっていて、間違いなく最も注目されていたリーグでした。

その中でも、バッジョは主人公とも言えるような存在。

もっと前で言えば、ペレ、ジーコ、マラドーナ・・・
現在で言えば、Cロナウド、メッシ・・・

1990年代の世界のサッカーを語るには欠かせない存在で、バッジョの活躍が鳴りを潜める頃に、ジダンやロナウジーニョが活躍し始めたという感じですね。

セリエAの全盛期だった頃に、優勝争いをする3チームであるユベントス、ミラン、インテルに在籍したことからもその凄さが分かります。

バッジョのプレースタイル

バッジョと言えば、やはり技術力。

惚れ惚れするような繊細なタッチ、パスやゴールの精度も非常に高く、ゴールもアシストも多く記録しました。

偉大な選手がチームを移籍して活躍できない場合がありますが、バッジョは全くそんなことはなく、どのFWやMFとも上手に連携をとれます。

現在の選手で言えばメッシとグリーズマンを足して割ったような、一言で凄い選手でした。

ただ、守備面に関しては否定的な意見が多かったのも事実。

バッジョは喫煙者ということもあるのか、スタミナが少ないことでも有名でしたね。

なので、トップ下としては最高の技術力を持ち合わせながら、守備をあまりしないため、FWでの出場が多くを占めていました。

セリエAでは通算452試合出場で205ゴール、イタリア代表では国際Aマッチ57試合出場で27ゴールをあげています。

また、ユベントス時代の1993年にバロンドールを受賞。翌年もバロンドール投票2位につけています。

18歳から幾度となく怪我に悩まされ、特に膝が悪かったバッジョですが、引退まで万全の状態であればどれだけの功績を残せていたのか、今でも議論されることがあります。

2004年、バッジョ引退

2000年から引退する2004年まで所属していたブレシアでは、何度も降格を救った選手として名を残しています。

それまでビッグクラブでプレーしていたバッジョですが、2002年の日韓ワールドカップに選ばれるためにブレシアへの移籍を決意して、出場機会を増やして代表監督(ジョバンニ・トラパットーニ)にアピール。

ブレシアでは活躍できたのですが、なんと6月開催のW杯本戦の5か月前となる1月に右膝前十字靱帯断裂…。

手術をして毎日リハビリをし、4月にはブレシアでの試合に出場してゴールを決めるなど活躍したものの、やはりコンディション面で落選してしまいました。

結局、イタリア代表は決勝トーナメントで韓国に負けてしまいベスト8で敗退。
バッジョは出場叶いませんでしたが、現在でもその試合は疑惑の判定が多いという話題があがりますね。

ロベルト・バッジョは後のインタビューで「夢の中で何度も日本に行った。毎日泣いたのを覚えている」と、落選のショックを語っています。
ちなみに、バッジョは熱心な仏教信者(創価学会員)で、ものすごい親日家としても知られています。

2002年も終わり、その後は2004年まで活躍したバッジョは、年齢を理由に引退。

最後のシーズンでも26試合出場12ゴールをあげる活躍を見せていたのでまだ出来るだろうと言われていましたが、バッジョのW杯にかける想いが強くて、次のW杯に出れないなら引退しても良いと考えていたと言われています。

ヒザの状態が悪かったので、限界を感じていたのかもしれません。

引退後から現在のロベルト・バッジョ

*画像出典:Forbes

2004年に引退したバッジオは、その後についた職業は、解説者でも指導者でもタレントでもありませんでした。

引退の2年前から2002年にFAOという国連食糧農業機関の親善大使に就任したバッジョは、世界の貧困や飢餓撲滅のために慈善活動を開始しており、引退後も活動は継続。

このFAOを通じて、鳥インフルエンザが流行への対応、病院の設立、ハイチ地震の被災者への募金、ビルマ民主化運動での野党党首であるアウンサンスーチー支持表明など、ことある毎に正しい立場を取りながら注目を集めてきました。

こういった活動が評価され、2010年にはノーベル平和賞の受賞者世界サミットから平和サミット賞を受賞し、イタリア国内でも話題になったそうです。

引退後はどちらかというと活動家というような立ち位置で、見た目は怖いですが平和的な活動を続けていました。

一方で、現役時代からイタリアにあるヴィチェンツァという街でスポーツ店のオーナーも務めていましたが、こちらは2008年に閉店しているようです。

経営者としては大成しなかったようですが、2008年はリーマンショックの大不況の年ですので、仕方ないかもしれませんね。

イタリアサッカー連盟の頃のバッジョ

平和サミット賞を受賞した2010年、8月にイタリアサッカー連盟の技術部門の会長に任命され、サッカー業界に戻ってきたことが大きく報道されます。

2011年の半ばにはイタリアカテゴリー2のコーチライセンス(UEFA Aライセンス)を取得、さらに2012年7月にカテゴリー1のUEFAコーチライセンスを取得。

これによって、セリエAのチームの監督を出来る立場となったのですが、若い選手の育成に力を注ぐことと守備的なイタリアのサッカーを変えようとしたことなど、イタリアサッカー連盟と意見が合わずに2013年に技術部門の会長職を辞めてしまいます。

2013年から表舞台に立つことのなかったバッジョですが、現在はイタリアの生まれ故郷であるカルドーニョからすぐのアルタヴィッラ・ヴィチェンティーナという緑豊かな街で家族とのんびりと生活をしているようです。

*画像出典:https://blog.crooz.jp/

趣味は野生の狩猟。
アルゼンチンにも個人的に牧場を持っているバッジョは、アルゼンチンでも狩猟を楽しむことがあったようですが、イタリアの生活している町の近くでも狩猟を楽しんでいます。

現役時代だった1989年に結婚したアンドレイナ・ファビとの間に生まれた子供は、上から長女ヴァレンティーナ(1990年生まれ)、長男マティア(1994年生まれ)、次男レオナルド(2005年生まれ)も共に生活しているらしく、家族で豊かな暮らしを送っているそうです。

また、2021年にNetflixで、バッジョの伝記映画となる「ディヴィン・コディーノ」日本語にして「神のポニーテール」が配信されました。

日本でも少し話題になりましたが、この映画をみつけられずどのような内容かは詳しくは分かりませんでした。

雑誌の取材では、

「サッカー協会を辞めても、あの時書き上げたプロジェクトはあきらめてない。だから、そんなサッカースクールを作ろうかとも思った。しかし、個人でやるスクールはたかが知れているし、直接指導するにも限りがある。私の指導理念に基づく指導をしてくれるコーチを育てたらって考えた。今はそういうコーチ育成のスクールを作りたいと考えている」

と語っています。

イタリアで監督のライセンスを持っているので、いつでも監督をすることが出来るバッジョ。

まだサッカーに対する夢は持っているようですので、現在ののんびりした生活も良いかもしれませんが、やはりファンとしてはもう一度グランドでバッジョを見てみたいですね。