アリ・ダエイ(サッカー元イラン代表)の現在。イランでの動画も発見!

アリ・ダエイの活躍

身長192cmという恵まれた体格で、身長を活かした叩きつけるようなヘディングが武器で『ペルシャンタワー』の異名を持っていました。

1990年代のアジアを代表するストライカーでアジジと共にサッカーイラン代表として活躍していました。

イラン代表としても打点の高いヘディングでゴールを量産し、国際Aマッチ歴代最多得点者になっています。

2位と20ゴール以上差をつけていて圧倒的ですね。

日本もワールドカップ予選や親善試合で何度もゴールを決められています。

アリ・ダエイのゴール集です。

1988年から【エステグラル・アルダビール】というチームでプレーし始めましたが、1989年に【タキニラ】、1990年には【バンク・テジャラトFC】と1年づつチームを変えていますが、出場や得点といった記録は残っていません。

しかし、1993年にはイラン代表としてデビューし、1994年に【ピルズィ・テヘラン】というチームに移ってから、38試合に出場し28得点上げています。

1996年のアジア大会では、得点王になっており翌年1997年には、イランを離れドイツのブンデスリーガに乗り込んでいっています。

1998年には、ドイツの名門【バイエルン・ミュンヘン】へ引き抜かれ、1999年にはアジア年間最優秀選手賞を受賞。

1999年から2002年まで【ヘルタ・ベルリン】で世界のトップレベルの選手たちと渡り歩いていましたが、2002年からアラブ首長国連邦のチーム【アル・シャバブ】に移籍しています。

2003年にはイランに戻っており、【ピルズィ・テヘラン】、【サバー・ゴムFC】、2006年には【サイパFC】へと移っています。

【サイパFC】では、選手兼監督として活躍していたが、2007年【サイパFC】のリーグ優勝が決まった日に選手として引退することを発表しています。

現役引退、イラン代表の監督へ

イランサッカー界の英雄の現役引退でイラン国民はさぞ驚いたことでしょう。

元々、サイパFCで選手兼監督として活躍していたのでそのままサイパFCの監督へとなっています。

選手といての引退を発表してから1年。

アリ・ダエイは、サッカーイラン代表の監督へとなっています。

最初は、サイパFCの監督もしながらイラン代表の監督もどちらもしていましたが、2008年のACLグループリーグを最後にサイパFCの監督を辞め、イラン代表に専念することを決めています。

イラン代表監督に就任したダエイですが、イラン代表のユニフォームを自身の経営するスポーツブランド【ダエイ】の物へ変えています。

しかし、イラン代表監督としては、輝かしい成績を残すことができず2009年に成績低迷を理由に解任されています。

2009年からは【ダエイ】のユニフォームは変えられてしまっています。

解任されてからは、以前にアリ・ダエイが所属していたクラブ【ピルズィ・テヘラン】の監督へ就任し、イラン国内で開かれる『ハズフィー・カップ』優勝という成績を残しています。

2011年には、ピルズィ・テヘランの監督を退任し、【ラーフ・アーハンFC】の監督に就任。

しかし、2013年には再び【ピルズィ・テヘラン】の監督に就任しました。

2015年からは【saba Qom FC】の監督に就任し、2016年まで率いていました。

アリ・ダエイの現在

2016年に【saba Qom FC】の監督を引退してすぐに、【Naft tehran FC】の監督に就任しています。

2016年の7月から2017年の5月まで監督として手腕を振るっていました。

*出典元:ウィキペディア

2017年に監督を退任してからは、再び【サイパFC】の監督として現在も活躍中です。

監督として現在も活躍しているアリ・ダエイ。

【ダエイ】の経営者としての情報を探しましたが、2008年に複合施設に資金援助をしたという記録以降の動きはわかりませんでした。

しかし、イランの英雄として知名度もあるので経営者としても活躍していると思います。

現在、イランの【サイパFC】で監督として活躍しています

この動画の6:40あたりからアリ・ダエイがすこし映ります。

現在も貫禄十分ですね。

イラン代表として日本の前に幾度となく立ちはだかったアリ・ダエイ。

実は、かなりの親日家です。

1994年に行われた広島でのアジア競技大会で膝を負傷したことで広島の病院に入院することになったアリ・ダエイ。

その時に、医師や看護師、日本のファンに励まされたことで日本が一番好きな国になったようです。

いつか日本でもサッカーに関連するお手伝いをしてほしいですね。