ジーコ(元日本代表監督・サッカーの神様)の現在!今は鹿島のアドバイザーに!

ジーコとは

*出典元:internationalpress.jp

ブラジル出身のサッカー選手で本名は『アルトゥール・アントゥネス・コインブラ』という名前です。

白いペレ】や【サッカーの神様】と呼ばれるほどの技術を持っており、ペレの『偉大な存命サッカー選手125人』に選ばれており、ペレに最も近づいたサッカー選手とも評価されていました。

兄の『アンツネス』と『エドゥアルト』の影響もあり、サッカー選手を目指すようになっています。

1967年にリオデジャネイロの【CRフラメンゴ】のユースチームのテストに合格しています。

テストに合格した時には小柄な体格で『やせっぽち』だったためポルトガル語の『Zico(やせっぽち)』という愛称で呼ばれていました。

そして、1971年には【CRフラメンゴ】のトップチームに昇格しています。

10年以上【CRフラメンゴ】に所属しており、1980年、1982年、1983年、1987年の『ブラジル全国選手権』で優勝を果たしています。

1981年には、『トヨタカップ(インターコンチネンタルカップ)』で初来日しています。

トヨタカップでは、優勝候補に挙げられていた【リヴァプール】に勝利し、見事優勝しています。

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1976年にはブラジル代表にも選ばれており、1978年、1982年、1986年には【FIFAワールドカップ】に出場しています。

1982年には、ソクラテス、ファルカン、トニーニョ・セレーゾと【黄金のカルテット】と呼ばれ、卓越した技術と圧倒的な攻撃力で優勝候補と予想されていましたが、イタリアとの試合に敗北してしまい、ブラジル代表はベスト8で敗退しています。

動画は、ジーコのスーパープレイ集です。

10年以上【CRフラメンゴ】に所属していましたが、1983年にはイタリアの【ウディネーゼ】に移籍し、1983年~1984年のシーズンでは19得点を上げ、得点ランキング2位という成績を残していました。

【ウディネーゼ】には、1983年から1985年まで所属していましたが、1985年には再び【CRフラメンゴ】に戻っています。

1989年にブラジル代表引退試合をイタリアで行い、同じ年の12月のフルミネンセ戦を最後にサッカー選手を引退しています。

【CRフラメンゴ】では、合計731試合に出場しており、508得点を上げ、クラブ史上最多記録を残しています。

現役を引退してからは、初めてブラジルで行われた大統領選挙で誕生した『フェルナンド・コロール・デ・メロ』大統領にスポーツ担当大臣に任命され、スポーツ担当大臣に就任しています。

鹿島アントラーズに入団

1年間スポーツ担当大臣として政治的な活動を行っていましたが、プロリーグ参加表明をしていた【鹿島アントラーズ】の前身の【住友金属工業蹴球団】のオファーを受けたことで大臣を引退し、【住友金属工業蹴球団】に入団しています。

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鹿島に入団してからは、選手としてだけでなくクラブ全体の指導も行っており、カシマスタジアムの芝の長さまで自ら決めていたようです。

1993年にJリーグが開幕してからは、【横浜マリノス】や【ヴェルディ川崎】などのクラブに対抗するために「トモダチなら、アッタリマエ!」で有名な『アルシンド・サルトーリ』を日本に呼んでいます。

Jリーグ初のハットトリックやチャンピオンシップで準優勝などの成績を残し、鹿島市から表彰されています。

戦術やプロ意識を日本サッカー全体に伝え続けたことで【サッカーの神様】と呼ばれ評価されていました。

サッカー選手引退から指導者へ

*出典元:ウィキペディア

日本でのプロサッカーリーグの成功を導きましたが1994年には現役を引退し、ブラジルに帰国しています。

ですが、翌年1995年には、【鹿島アントラーズ】のテクニカルアドバイザーに就任しています。

プロサッカー選手を引退し、鹿島のテクニカルアドバイザーに就任していますが、ビーチサッカーを続けており、ビーチサッカーブラジル代表として、【ビーチサッカーチャンピオンシップ】後の【FIFAビーチサッカーワールドカップ】に1995年と1996年の大会に出場し、ビーチサッカーブラジル代表を優勝に導いています。

1995年の大会では、MVPと得点王にも輝いています。

鹿島のテクニカルアドバイザーとしても活躍していたジーコさんですが1996年にはリオデジャネイロで【CFZ(ジーコフットボールセンター)】を設立し、選手の育成などに携わっており、鹿島の若手選手もここを育成の場として使用されていたようです。

1998年には、テクニカルアドバイザーを行いながらも【ブラジルサッカー連盟】の要請を受けたことでブラジル代表のテクニカルディレクターに就任し、【FIFAワールドカップフランス大会】にスタッフとして参加していました。

日本代表監督に就任

トルシエ監督が日本代表監督を辞任後、日本代表監督に就任しています。

監督経験は無かったですが、鹿島での経験や成績から抜擢されています。

日本代表監督に就任して初めての試合では、中田英寿や中村俊輔、小野伸二、稲本潤一の4人を同時に起用するなど話題なっていました。

中国で行われた【AFCアジアカップ2004】では優勝という成績を残し、2005年のワールドカップドイツ大会最終予選では、イランに敗北していますがそれ以外の全ての試合では勝利し、11勝1敗という成績を残しています。

ドイツワールドカップ予選で快勝し、挑んだ2006年ドイツワールドカップですが、オーストラリアに逆転負け、クロアチアに引き分け、ブラジル戦でも逆転負けという成績でグループリーグ敗退しています。

ドイツワールドカップのブラジル戦を最後に中田英寿が引退を発表しました。

ドイツワールドカップでは、思うような成績を残すことはできませんでしたが、日本代表監督を退任後は、トルコの【フェネルバフチェ】という名門チームの監督に就任しています。

【フェネルバフチェ】の監督に就任してからは、2006年~2007年シーズンでは、首位に立ってからはどのチームにも首位を譲らずリーグ優勝を成し遂げています。

2008年には、【UEFAチャンピオンズリーグ】の決勝トーナメントに進出し、セビージャ相手に見事勝利を納めていますが、準々決勝でチェルシーと対戦し、ホームで勝利したもののアウェイで敗北し、ベスト4進出することはできませんでした。

その後、【フェネルバフチェ】との任期満了で延長交渉を受けていましたがクラブと条件が合わなかった為、監督を退任しています。

【フェネルバフチェ】の監督退任後、ウズベキスタンの【ブニョドコル】の監督に就任し、ウズベキスタンカップとウズベキスタンリーグで優勝を果たしています。

二冠という成績を残しましたがロシアの【CSKAモスクワ】の監督の話しが来たことで【ブニョドコル】と円満退団し、【CSKAモスクワ】の監督に就任しています。

【CSKAモスクワ】の監督に就任しましたが、思うような成績を残すことができず成績不振で解任されています。

その後、ギリシャの【オリンピアコス】の監督に就任していますが【オリンピアコス】でも成績不振で解任しています。

2010年には、【2022FIFAワールドカップ】日本開催招致のアンバサダーに就任し、同じ年には【CRフラメンゴ】のテクニカルディレクターに就任しています。

ですが、クラブでの対立があったことでフラメンゴを辞任しています。

2011年には、イラク代表の監督に就任しています。

元々、兄のエドゥにオファーされたものみたいですがエドゥがジーコに譲ったことでイラク代表の監督になっています。

イラク代表の監督に就任していますが給料の未払いなどの問題もあり、辞任を示唆していましたが弁護士の介入もあり、イラク代表監督としての活動を再開しています。

その後、2012年の11月にイラク代表の監督を辞任しています。

イラク代表監督を辞任してからは、2013年にカタールの【アル・ガラファ】の監督に就任しています。

ですが、【アル・ガラファ】でも成績不振で解任されてしまっています。

ジーコ監督の現在

2013年に【アル・ガラファ】の監督を解任されてからは、2014年にインディアン・スーパーリーグの【FCゴア】の監督に就任しています。

ですが、2017年に【FCゴア】の契約を延長せずに退任しています。

【FCゴア】の監督を退任して以降は、監督に就任していませんが2017年には自ら主催したチャリティーマッチに参加しています。

ロマーリオやアドリアーノも出場しています。

*出典元:youtube

現役の頃と比べると少し太っていますがパスの技術などはいまだ健在ですね。

【FCゴア】の監督を退任後は、クラブの監督に就任していませんがチャリティーマッチを主催するなど今もなおサッカーと関わり続けていますね。

監督として活動していないですがインスタグラムなどを見る限り、解説者的な活動を行っているようです。

*出典元:インスタグラム

ジーコのインスタグラムはこちら。

インスタグラムなどを見る限り、今もなおサッカーに関わり続けているようです。

さらにオフィシャルサイトなどの投稿などを見ると日本との関りもあり、Jリーグ選抜と【ボアヴィスタ】との親善試合などの情報を公開していました。

ジーコのオフィシャルサイトはこちら。

現在では、監督して活動していないようですが、まだまだ監督として活躍できそうですね。

今は日本には在籍していませんが、鹿島アントラーズのクラブアドバイザーとしても在籍する形となっているので、日本にはたまに来ているようです。

2022年も9月から11月中旬まで日本に。

日本代表の監督に就任していましたがJリーグのチームの監督にきちんと就任してないのでJリーグの監督に就任することを期待したいですね。

監督としては、賛否両論ありましたが、日本のサッカー界にもっとも貢献した偉大な人物だったことは間違いありません。