徳川家の末裔の現在。徳川将軍家、御三家の今の当主など徹底解説

15代に渡って江戸時代の天下を統一していた徳川家。
1603年に徳川家康が征夷大将軍に就いたことから始まり、明治に改元されるまで実に265年もの歴史があります。現在においても徳川家の末裔は存在しており、当主は代々受け継がれ、今は18代目となっています。今回は、これまでと現在の徳川家の人々の活動などをまとめてみましたのでご覧ください。

15代続いた徳川将軍

265年も続いた江戸時代を統一していた徳川家。15代も受け継がれてきた歴史はかなり複雑ではありますが、まずは家系図をご覧ください。

*画像出典:https://www.touken-world.jp/tokugawa15/

長年続いた徳川家は必ずしも将軍の長男が後を継いでいったという訳ではありません。

まずは、15代続いた徳川将軍を一人ずつ、簡単に解説します。

初代将軍・徳川 家康

1543年に生まれは三河国の土豪・松平氏。幼少期は松平 竹千代という名前でしたが、下の名前を元信→元康→家康と改名し、1967年に姓を徳川に改姓。

意外と知られていませんが、徳川に改姓していなければ、松平15代将軍と呼ばれていたのでしょう。

関ヶ原の戦いで勝利し、1603年には征夷大将軍となった徳川家康は、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡して、その後260年も続く江戸幕府を現在の東京で開きました。

意外と知られていませんが、在任期間はたったの約2年
天下を獲ると、たったの2年で3番目の息子である秀忠に将軍の座を渡しています。

徳川家康は、日本の歴史上で最も続いた江戸時代を画した人物であり、最も知られた人物の一人です。

当時は高齢の73歳という年齢で(駿府城で)亡くなったのですが、死因は天ぷらの食べ過ぎとか食中毒とか考えられていました。
しかし現在主流となっている説は、「見る間に痩せていき、吐血と黒い便、お腹に大きなシコリができた」という文献が残っていることから胃ガンで亡くなったというのが最も有力な説です。

第2代将軍・徳川 秀忠

1579年、徳川家康の三男として浜松で誕生。

たった2年しか在籍していなかった初代の家康とは違って、約18年もの期間、江戸幕府の征夷大将軍として活躍しました。

日本全土を支配するための体制は、この徳川秀忠が確立したと言われているほど、江戸幕府にとって重要な人物。
特に秀忠のリーダーシップは有名で、様々な政策を実行しては成功していたそうです。

1623年には将軍の地位を息子である家光に譲り、ご隠居したのですが、隠居後も朝廷との関係は秀忠が深く関与していったようです。

54歳で亡くなり、現在も遺体は芝公園駅近くの増上寺に眠っています。

第3代将軍・徳川 家光

幼少期に吃音症を患っており、また、容姿に関してもお世辞抜きにもイケメンとは言えないビジュアルだった家光。
2代将軍秀忠の次男として誕生したが、長男は早くに亡くなったために秀忠の後を継ぎ、第3代将軍となりました。

1623年から1651年まで約28年間も将軍に在籍しており、徳川将軍家に対する軍役奉仕を目的に制度化された参勤交代を義務付けた人物としても有名。

19歳で徳川将軍となり30年近くも在籍していましたが、48歳という若さで病死してしまいます。
遺言により東叡山寛永寺に移されて、現在は日光の輪王寺に眠っているそうです。

第4代将軍・徳川 家綱

若干11歳にして将軍家を継承した家綱。子供でも将軍になるということで、世襲制が盤石であることを世に知らしめるためでもありました。

それまで京都で将軍宣下を行っていたのですが、家綱が江戸城で征夷大将軍に就任したことにより、以後15代将軍におけるまで徳川家の将軍宣下は江戸で行われるようになります。

3代将軍家光の死後、慶安の変などの討幕未遂事件が起こるなど、政情不安に見舞われたのですが、大老などの補佐の活躍で、幼くして将軍になりながらも29年の在任期間は政権は安定していたと言われています。

生まれつき病弱だった家綱には男の子が生まれなかったため、家綱の兄弟である館林藩主の松平綱吉を養子に迎えたその後、たった数日で急死したそうです。

徳川将軍家の直系の子供が将軍を世襲したのは、家綱が最後になってしまいました。
それでも、家綱も綱吉も家光の息子にあたるので、血は濃く継承しています。

第5代将軍・徳川 綱吉

第3代将軍徳川家光の4男として生まれ、4代将軍家綱に男の子が生まれなかったことから家綱の死後に将軍になった綱吉。

徳川綱吉といえば、やはり生類憐みの令。病人やハンデを持った子供、捨て子や高齢者の保護を目的として制定されましたが、対象は動物や魚、昆虫まで及んでいて、庶民に大きな影響を与えてしまいました。

これが原因で、綱吉は非常に評価の低い将軍として認知されてしまうものの、最近では儒教に基づく文治政治の一環として高く評価する学者もいるそうです。

綱吉は62歳(63歳になる直前に)で成人麻疹により逝去。

生前に定めた捨て子禁止令は綱吉の死後も続いたことから、生類憐みの令はその全てが反対された制令ではなかったことが分かります。

第6代将軍・徳川 家宣

3代将軍の徳川家光の3男である綱重の長男として生まれた家宣が6代目の将軍となりました。

実は4代目の家綱に男の子が生まれなかったことから、5代将軍として任命される案もあったそうですが、家光の4男の綱吉が5代将軍になったため、綱吉の死後に将軍として任命されました。

綱吉もまた、男の子が生まれなかったため、6代将軍になった家宣。

しかし、将軍となった時はすでに48歳という高齢で、のちに51歳で亡くなるため在任期間はたったの3年でした。

その間には、綱吉の定めた生類憐みの令を捨て子禁止令の部分だけ残して撤廃したり、宝永通宝の流通に尽力するなど、短い期間でありながら政治の手腕を発揮したそうです。

第7代将軍・徳川 家継

徳川家の歴史上、最も最年少で将軍となった家継。その年齢はなんと3歳でした。

6代将軍の家宣の子供は男の子が4人生まれましたが、長男の家千代は2か月、次男の大五郎は2歳、三男の虎吉も3か月と、早世しており、家宣が亡くなるときに唯一生存していた3歳の家継が将軍を継承した形になります。

残念ながら、他の兄弟と同様、家継も病で7歳になる前に命に幕を閉じることとなりましたが、将軍在任期間中はもちろん側近による政治

側近たちが躍動する傍ら、大奥を舞台とした江島生島事件が起こっていることが有名です。

第8代将軍・徳川 吉宗

家継が6歳で亡くなったため、直系の血が途絶えた形になりましたが、初代将軍・徳川家康の10男にあたる徳川頼信の孫である徳川吉宗が8代将軍に就きました。

在任は1716年。江戸幕府が始まって103年が経っていますが徳川家康のひ孫にあたります。

8代将軍吉宗はあまりに有名。享保の改革寛政の改革天保の改革と言われる三大改革を実施し、徳川将軍の中でも最も評価される政治を行った人物です。

また、財政面に関しても米相場を中心に改革を行っていたこともあり、米将軍とも呼ばれています。

将軍を長男の家重に継承した後も実権を握り続けていたのですが、66歳に脳卒中で亡くなったと考えられています。

死後も自身の傍らに置いていた箱の中から数百枚にも及ぶ米相場の価格が書かれた紙がみつかるなど、経済政策に対して熱心だったそうです。

第9代将軍・徳川 家重

脳性麻痺もしくは顔面麻痺を患っており言語障害があった家定が、吉宗の長男ということで1745年に将軍の座に就きました。

知力はあったのですが、言語障害に加えて文武を怠っていたことからも、側近からは将軍不適合で次男の徳川宗武が相応しいという声も上がっていましたが、後継者争いが権力の乱れを生む可能性を考えた吉宗が長男である家重を任命したそうです。

将軍には15年在任した家重は、宝暦の勝手造り令で酒造統制の規制緩和などの経済政策を行いましたが、吉宗の推進した享保の改革による増税策で百姓一揆が多く発生するなど、万全の政治を行ったとはいえません。

言語障害のほかに排尿障害を患っていたため、小便公方とも呼ばれており、尿路感染や尿毒症によって51歳で亡くなったと考えられています。

第10代将軍・徳川 家治

家重の息子である家治が10代将軍を世襲しました。前述の通り、祖父は8代将軍吉宗なんですが、吉宗は家治が幼少児から頭の良さを評価していたそうです。

吉宗による熱心な教育で家治は文武に長けており、9代将軍の家重が存命中の23歳で将軍に任命されています。

しかし、在職期間中の26年間、将軍としては非常に低評価。その理由としては将棋などの趣味に没頭してしまっていたせいです。やる気がなかった将軍としても知られていますが、幕政を家臣に任せていました

将軍になったばかりは老中の松平武元などと政治に励んでいたものの、松平武元が亡くなってから政治にかかわらなくなったという説もあります。

50歳で心不全で亡くなったと考えられていますが、毒を盛られたといううわさも流れていたそうです。

第11代将軍・徳川 家斉

15代続く徳川将軍家で最も在任期間の長い50年も、征夷大将軍として国を治めてきたのが家斉。江戸幕府だけでなく、日本史の歴代の征夷大将軍の中でも一番在籍した将軍としても有名です。

先代の家治の子供は男の子おらず、8代将軍吉宗の四男である徳川宗尹の孫にあたる家斉が、10代将軍家治の養子となり、1787年、14歳の時に将軍となりました。

若くで将軍に就いたことから松平定信を老中にして政治を主導させる寛政の改革、側近政治に不満が上がり起こった大塩平八郎の乱生田万の乱など、家斉の50年に及ぶ政治はあまり評価が高くありません。

また、子だくさん将軍としても知られていて、分かっているだけでも40名以上の女性との間に53名もの子供がいました。世継ぎ作りは将軍や大名の最も重要な公務だったのですが、この数はさすがに歴史上でも珍しいそうです。

17歳で島津家の大名の娘(広大院)と結婚していながら、その翌月には別の女性との間に第1子が生まれていることから、10代から子作りに励んでいたことが分かっています。

次の将軍となる家喜は、家斉の次男(4番目の子供)ですが、広大院との間の子ではなく側室の香琳院という女性との間の子供だそうです。

第12代将軍・徳川 家喜

前代の家斉が亡くなる前に1837年に家喜は45歳で将軍となりました。それ故に、家斉が亡くなるまでは実際は家斉が権力を握っていたそうです。

父親の家斉とは不仲だったことは有名で、家斉の側近たちが家喜の唯一の男の子である家定(のちの13代将軍になる)を毒殺しようとしていたという噂もあります。

この12代将軍家喜からは現在でいうところの幕末という江戸時代末期となりますが、将軍に在任していた18年の間で最も大きな出来事は黒船来航でしょう。

1853年、マシュー・ペリーが4隻の軍艦を引き連れて浦賀沖に現れて、開国か降伏かを迫られるのですが、ペリーが日本をあとにした10日後に家喜は熱中症で亡くなってしまいました。
61歳だったそうです。

現在は東京都港区の増上寺に眠っています。

第13代将軍・徳川 家定

黒船来航で幕府が動揺している中、12代将軍の家喜が急死し、31歳で徳川将軍となった家定。

父の家喜にとっては生存している唯一の男の子だったのですが、実際の家定は病弱だったことからも生前は従弟にあたる慶喜(のちの15代将軍)を跡継ぎにさせたかったそうです。

家定は急遽将軍となったのですが、ペリーが初来航の翌年に再来航すると、日米和親条約に調印することとなります。

家定は当初から健康状態が優れなかったことから、老中の阿部正弘によって主導されたと言われています。

結局、将軍に就いてから5年後に他界することとなりましたが、元々の病気によるものという説と、当時世界的に流行していたコレラに感染したという説があります。

第14代将軍・徳川 家茂

徳川斉順(11代将軍・家斉の7男)の子供で、13代将軍の従弟にあたる徳川家茂が、前代から最も濃い血筋であることを理由に将軍に選ばれました。

しかし、将軍になった時はまだ13歳。当然、ほとんどの政治を側近が行っていたのですが、将軍になった2年後には桜田門外の変で大老・井伊直弼が暗殺されるなど、激動の時代に重責を背負わされた印象があります。

それでも、勝海舟は「もう少し長く生きれば英邁な君主として名を残したかも」と家茂を称賛していたそうです。

17歳の時に皇族と結婚していますが、実子はおらず、20歳で大阪城にて病死してしまいました。

家茂もまた港区の増上寺に眠っています。

第15代将軍・徳川 慶喜

12代将軍の家喜も幼いころから高く評価していた慶喜が、1866年に日本最古の征夷大将軍に任命されます(在職は1867年1月から)。

1867年には大政奉還が成立して、征夷大将軍を辞任すると徳川家の将軍としての歴史は終了。

たった1年だけの将軍時代で、徳川将軍の中で唯一、将軍として江戸城に入らなかったのですが、鳥羽伏見の戦いのあとに初めて江戸城に入ったそうです。

大政奉還のあとも日本の政治に深く関わり、近代的な政治体制の構築にとても影響した人物としても知られています。

1913年に76歳で死去したのですが、徳川将軍の中で最も長生きし、晩年は自転車でサイクリングをしたり、ドイツのダイムラー社の自動車も所有していたそうですので、最後の将軍と言えども、つい最近まで生存していた感じがしますね。

15代までの将軍は歴史の勉強などで学ぶ機会もあったと思います。
それでは、大政奉還ごの徳川家16代から現在の当主と今後の当主までをご覧ください。

徳川家の末裔は、17代まで徳川公爵家として後継

徳川将軍家は明治維新後の1884年に公爵の爵位を授けられて徳川公爵家と呼ばれるようになりました。

その頃には将軍は存在しないものの、当主として血筋を継承しなければならず、将軍家という呼び方が相応しくなかったようですね。

しかし、1947年に華族制度が廃止。
華族制度とは、大名家に由来する華族や、国家への貢献により華族に加えられた一族などを指しており、明治7年に内務省は2891人の華族がいると発表しました。

その制度を戦後に廃止することになったのですが、それまでは徳川将軍の末裔の当主の事を徳川公爵家と呼んでおり、現在は徳川宗家と呼んでいます。

それでは、過去に徳川公爵家と呼ばれた16代目と17代目を簡単に解説します。

第16代徳川公爵家・徳川 家達(いえさと)

1863年生まれ、徳川慶頼の3男で、13代将軍の家定や14代将軍の家茂の再従兄弟(はとこ)にあたります。

もともと家茂の遺言で15代将軍として相続される可能性があったのですが、その時わずか4歳。大名など多くの要人が反対したこともあり、慶喜が15代となったのちに家達が16代目の当主となりました。

徳川家達は静岡県の初代藩主だったのですが、廃藩置県の後は貴族院議員になって、1903年から30年間も貴族院議長を務めるなど政治の世界で活躍。

また、現在で言うサッカー協会の会長、東京オリンピック組織委員会委員長、日米協会会長などのポジションにも就いていて、明治初期から昭和初期までの日本の政治に不可欠な存在となりました。

14歳になる頃にはイギリス留学を5年ほど経験しているので、英語も話せたインテリ。ワシントン会議の全権大使に就任して、外交を行うなど英語を活かした政治活動も評価されました。

イギリスから帰国後すぐに結婚した近衛泰子との間に生まれた家定(のちの17代目当主)と3人の女の子の合計4人の子宝にも恵まれています。

第17代徳川公爵家・徳川 家正

1884年に16代目の徳川家達の長男として誕生。家達はその後、男の子を授からなかったので、家達の死後すぐに公爵を襲爵しました。

非常に頭が良く、東京帝国大(現在の東大)の法科大学政治科を卒業しています。

25歳で大学を卒業すると、外務省に入省
シドニー総領事やカナダ公使などを経てトルコ大使も務めました。

家達の死後に16代目の徳川公爵となると、1940年に貴族院議員となり、1946年には議長に就任。

その後、すぐに貴族議員の制度が廃止されたため、63歳で引退することとなりました。

薩摩藩島津家の島津正子(なおこ)との間に、4人の子供に恵またものの、唯一の男の子だった家英は24歳にして先立たれていたため、跡継ぎに血縁関係のある松平恒孝(のちの18代目である徳川恒孝)を養子に迎えて、78歳で心臓病で亡くなりました。

現在の徳川家末裔は18代目。徳川恒孝さんの今

今の徳川宋家の当主は、18代目の徳川恒孝(つねなり)さん。

家正が生前に会津松平家から血縁関係にあった恒孝さんを養子に迎え入れており、1963年に家正が死去したことにより家督を継いで18代目の当主となりました。

1940年生まれで、皇族ご用達の学習院大学を卒業すると、日本郵船株式会社に入社。

徳川家の18代目の末裔が一般企業で努めているのは凄いことのような気もしますが、日本郵船は辞めることなく働き続けました。
その結果、61歳に副社長にまで上り詰めています。

学習院だから賢いとは思いますが、大企業の副社長にまでなるのは、ビジネスマンとしても優秀だったということが分かりますね。

しかし、副社長になった翌年2002年には日本郵船を退社。そのまま顧問という形で在籍したのですが、翌2003年に徳川記念財団を設立しました。

徳川記念財団のHPは→こちら

2003年といえば、江戸幕府が開かれたのが1603年だったので、ちょうど400年目の節目の年。
18代目として恒孝さんもするべきことを考えたのでしょう。

当時の天皇・皇后が徳川将軍家展をご鑑賞されたことからも、徳川記念財団の役割は大きいと思います。

その後は、皇室と関係の深い東京慈恵会の会長や、静岡商工会議所の最高顧問、日本美術刀剣保存協会の名誉顧問など、多くの名誉職に就任

現在は頻度は少ないのですが、全国で講演や講義を行うなど、18代目として非常に貴重な生の声を届けています。

徳川家の大事な後継者問題ですが、現在は既に80歳を超えている恒孝さんには、徳川家広さんと徳川典子さんの2人の男女の子供がいます。

徳川家の19代目当主には、唯一の男子である家広さんがなると考えられています。

19代目となる徳川家広さんの現在と徳川記念財団の今

いま現在の徳川本家の18代目、徳川恒孝さんには徳川家広さんという息子が一人だけ。
男の子は他に生まれませんでしたので、このまま家広さんが19代目の当主となることがほぼ決定しています。

しかし、実は以前までは現在の当主である恒孝さんは後継者に家広さんを考えていませんでした。

家広さんは1965年、東京都生まれ
幼少期はアメリカで過ごすなど、恵まれた教育環境にあり、学習院高校から慶応大学の経済学部に進学。

大学を卒業すると、アメリカのミシガン大学大学院で経済学修士号を取得しています。

社会人としては、国連の食糧農業機関などに勤務したのち、コロンビア大学で今度は政治を学んで政治学修士号を取得。

とにかく超がつくほどのエリートです。

しかし、国連ではイタリアとベトナムでの勤務だったのですが、ベトナム支部に努めていた頃にベトナム人女性と恋仲になって結婚しました。

一般人であれば国際結婚は普通の時代なのですが、家広さんは徳川家の当主となる人物。
もちろん、今の当主の恒孝さんは大反対だったそうです。

結局、そのまま結婚したそうで、現在に至っています。

最近では、徳川家18代目の恒孝さんは、家広さんを19代目当主として考えていることをコメントしており、さらに、徳川記念財団の業務を恒孝さんから家広さんに分担するようになってきているので、間違いなく家広さんが19代目になると考えられています。

ちなみに、家広さんは2019年の参議院議員選挙に静岡県選挙区から出馬しています。

将軍の血が入った、現代社会の超エリートの出馬。当選するだろうと考えられていながら、落選してしまいました。

当時は自民党が全国でも勢いのある時代だったのですが、立憲民主党からの出馬ということもあり、時期がわるかったかもしれません。

その後は2020年に立憲民主党に離党届を提出。
自身のFacebookページでは次のように語っています。

もしも今、私が国会議員という公職に就いているのであれば、コロナ禍に対する政府の対応についても、また安倍前政権から現在の菅政権へと続く疑惑の数々の解明についても、寝食を忘れて、積極的に自らの意見を発信し、公論を喚起し、政府や社会を動かしていくことに全身全霊を傾けていくべきところであります。ですが現在の私は、そのような公職には就いておりません。このため現状においては、自分は政治活動を継続するのではなく、一歩立ち止まって考えを深めるべきであると考えるに至り、立憲民主党を離党致しました。

さらに、父親である18代目当主の恒孝さんが2020年で80歳になった事で、徳川記念財団の業務を引き継いでいる段階であることも公表。

経済や政治の知識がプロといえるほど持ち合わせていながら、経済界や政治の世界ではなく今後は徳川記念財団を支えていくと思われます。

また、ベトナム人の奥さんとの間にはお子様はいらっしゃらないそうです。

本当にいるのかいないのかは、定かではないのですが、20代目の当主はこのままだと他の血縁関係者を養子に迎えることになる可能性が高く、そうでなければ徳川家本家は19代で終了という可能性がありそうです。

徳川御三家それぞれの現在

徳川本家と言われるのが、これまで解説した徳川将軍家→徳川公爵家→徳川宗家です。

徳川家康は、2代将軍の秀忠の他の息子たちを、尾張藩、紀州藩、水戸藩に大名として置きました。(順番に現在の愛知県、和歌山県、茨城県にあたる)

それぞれ、尾張徳川家紀州徳川家水戸徳川家として栄えていったのですが、現在もその血筋は続いています。
そしてその三藩の徳川家は御三家と呼ばれ、今も代々当主を引き継いでいます。

御三家の現在を調べてみました。

尾張徳川家の現在

徳川家康の9男である徳川義直から始まった尾張徳川家

尾張徳川家は尾張藩(現在の愛知県)の藩主として徳川将軍家とも深い関係にあり、将軍家に後継ぎがいないときは紀州徳川家と水戸徳川家と同様に後嗣を出す資格を有した血筋です。

400年にも及ぶ長い歴史があるため、さすがにずっと長男に引き継がれてきたわけではありません。

11代目の徳川斉温は、逆に徳川将軍家からの養子ですし、12代目・13代目も御三家ではない田安徳川家からの養子です。

廃藩置県の後も尾張徳川家は継承し続けています。

徳川将軍家は15代で最後でしたが、そのときの尾張徳川家は17代。
そして現在の尾張徳川家は22代目で、徳川 義嵩(よしたか)さんが務めています。

*右が徳川義崇さん

徳川義崇さんは1961年生まれ。現在60歳代で、会社経営や多くの団体の会長、副会長を務めています。

学習院大学経済学部を卒業し、IT技術の研究にも携わるなど経済学を学んだエンジニア。

八雲産業という尾張徳川家の管理を務める会社も設立して、社長としても活躍しています。

他にも、名古屋大学の参与、名古屋徳川美術館の館長など、多くの名誉職に就いている重鎮と言える存在。

結婚は2000年、39歳の時にしており、子供については情報が出ておりませんので23代目についてはどうなるのか分かりません。

ちなみに、身長は185㎝とかなり大柄な体格。それでいて表情もにこやかで、とても評判の良い人柄だそうです。

紀州徳川家の現在

徳川家康の10男である徳川頼宜が家祖で、他の御三家や将軍家との血縁関係はもちろんのこと、8代将軍吉宗や14代将軍家茂は紀州徳川家からの養子。

頼宜は家康から大坂冬の陣の初陣の時に、父である将軍家康から直々に鎧初めを受けるなど、特別な扱いを受けており優秀な人材であったことが分かります。

のちの8代将軍の徳川吉宗の祖父にあたるなど歴史的にみても重要な人物で、紀州徳川家は幕末までに14代まで当主を相続しました。

明治以降は15代の頼倫16代の頼貞と継承し、戦後は17代の頼韶18代の剛と、続いて現在は19代目の徳川宣子さんが当主となっています。

18代の剛は、1958年に17代目の頼韶の妹の夫で、婿養子になった事により家督を引き継いだ人物。
現在の19代目徳川宣子さんは、16代目頼貞の孫にあたり、徳川家の中でも類を見ない女性当主です。

*画像出典:https://directory.asj-net.com/

1956年、東京都で徳川剛と宝子の間に生まれた宣子さんは、東洋英和女学院短大を卒業後に専修学校の文化学院に入学(現在、文化学院は2017年に他の学校と統合して閉校)。

文化学院では建築を学び、大手建設会社の大成建設に入社すると、4年後には石橋利彦さんと石橋徳川建築設計所を設立して現在に至っています。

建築関係の知識や技術はかなり高く、東京建築士会評議員や東京YMCAデザイン研究所の講師を務めるなど実績も抜群
建築家として住宅建築賞やINAXデザインコンテスト金賞など、受賞歴も華やかです。

プライベートでは現在65歳を超えておりますが、2009年の朝日新聞での取材で独身であることを答えています。

このまま養子に迎えることがなければ、紀州徳川家は19代目の徳川宣子さんで終了となりますが、今のところその可能性が高いと思われているようです。

伝統を引き継ぐのは徳川家に生まれた責任かもしれませんが、同時に財産なども引き継がなければなりません。

紀州徳川家16代目の頼貞が、東京音楽学校にパイプオルガンを寄贈するなど音楽文化への多大なる貢献をしており財産を1代で使い切ったと言われています。

受け継ぐ財産もなければこれ以上の家督の引き継ぎは、責任と名誉だけになってしまうため、引き継ぐ方も受け継ぐ方も伝統をストップさせた方が良いという考えになるかもしれませんね。

由緒ある家系ですので、逆に相応しくない人物を引き継がせるより終わらせるというのもまた、時代に合った美徳かもしれません。

水戸徳川家の現在

徳川家康の11男である徳川頼房から始まった水戸徳川家。

徳川頼房は11人の男の子と15人の女の子の子供がいましたが、生涯において正室(本妻)を作らなかったことでも知られています。

また、水戸徳川家の2代目・徳川光圀は頼房の三男で、かの有名な水戸黄門としても知られている人物。水戸光圀とはこの人の事です。

幕末を迎える頃、水戸徳川家は11代目の徳川昭武が当主でした。

その後、明治時代に入ると12代目の篤敬、13代目の圀順と続き、水戸徳川家宗家として14代目の圀斉、そして現在は15代目の徳川斉正さんが当主として引き継いでいます。

1958年、東京都で産まれた徳川斉正さんは、幼稚園から慶応。そのまま慶応大学を卒業すると大手保険会社の東京海上に入社。
現在は退職されているのですが、執行役員総務部長まで務めたので、かなり優秀な方です。

東京海上(現在は東京海上日動火災)に勤務しながら財団法人水府明徳会(現在の徳川ミュージアム)の理事長を務めるなど、徳川の伝統を大切に守ってきています。

徳川ミュージアムでは、大能林業有限会社という会社を設立しながら徳川材という上質な木材や薪、苗木を販売。

事業でも成功を収め、水戸育英会総裁、公益財団法人三徳庵の理事や山階鳥類研究所の理事など、多くの組織の運営を手掛けています。

現在、水戸徳川家の15代である斉正さんですが、年齢は60代。
息子さん(徳川斉礼さん)も慶応大学を出ているエリートらしく、16代目の水戸徳川家としてほぼ決定しているそうです。

現在の徳川家のまとめ

徳川将軍家と呼ばれる、徳川宗家は現在、徳川恒孝さんが18代目の当主。19代目としては家広さんがほぼ決定。

御三家の尾張徳川家は、22代目の徳川義崇さんが当主。39歳で結婚したのですが、子供の情報はまったくなかったので、23代目に関しては不明です。

紀州徳川家の当主は、19代目、徳川宣子さん。唯一の女性当主で60歳を超えており、独身のため今後の出産はないのですが、養子を迎えない限り19代目で終了となります。

水戸徳川家は、現在15代目の徳川斉正さんが当主で、16代目は息子の斉礼さんが受け継ぐ予定です。

徳川本家と御三家以外にも、8代将軍吉宗のときに設けられた御三卿という将軍の家族があり、田安徳川家、一橋徳川家、清水徳川家がそれに当たります。

*田安徳川家の現在の当主は徳川宗英(むねふさ)さん、一橋徳川家の現在の当主は徳川宗親(むねちか)さん、清水徳川家の現在の当主は徳川真さん。

また、駿河徳川家、甲府徳川家、館林徳川家など4代以上続くことがなかった一門もあります。

それぞれの徳川家の当主となっている人物は、現代社会でも重要な仕事をするなど社会でもご活躍しています。