2002年の読売ジャイアンツ優勝の立役者となった絶対的抑えのエース。ポーカーフェイスでも有名な河原純一 元投手は中日に移籍し、その後引退した。 引退してからの素晴らしい活動と河原の意外な一面をもっと知ってもらいたい。 |
河原純一とは
*画像出典:www.nikkansports.com
1973年生まれ、2016年現在で43歳の元プロ野球選手。神奈川県出身。
神奈川県立川崎北高校→駒澤大学
甲子園の出場はないが、高校時代から実力は高く、大学リーグでは防御率1.66を記録し、最優秀投手とベストナインにそれぞれ2度ずつも選ばれています。
1994年、ダイエーホークスとの争奪戦の末、巨人から指名されました(ドラフト1位)。
【読売ジャイアンツ時代】
デビュー戦の1人目の打者(カープ・野村謙二郎)に初回先頭打者ホームランを浴びる幌似がデビューでしたが、1年目は新人でありながら8勝をマーク。
阪神戦では3試合連続完封を含む6勝を挙げ、阪神キラーと言われました。
その後は怪我に泣かされ、2001年にはストッパーとして投げ始め、2002年には28セーブ。
原監督に絶対の信頼を得ており、オールスターでもファン投票で選ばれ、巨人が日本一に輝いた時の胴上げ投手になっています。
【西武ライオンズ時代】
2005年に後藤光貴とトレードでライオンズに移籍すると、先発投手に変更。
初先発では勝利投手となりましたが、シーズンは負け越してしまいます。
さらに、右膝靭帯損傷で手術を受けることに。
2007年には戦力外通告を受けてしまい、11月の合同トライアウトに参加することに。
【中日時代】
中日の入団テストで合格し、2008年からは中日の選手になります。
しかし、初登板は2009年。それでも中日で初ホールド・初勝利を挙げ、シーズン通して防御率1点台と、投手王国に相応しい大活躍を見せました。
しかし、2011年には2点台の防御率でありながら負けが先行してしまい、またも戦力外通告。
その年に日本シリーズでも投げていますが、そのままプロ野球から姿を消すこととなってしまいます。
【四国独立リーグ時代】
2012年、トライアウトでプロから声がかからなかった河原は、愛媛マンダリンパイレーツに入団することになります。そして、2015年まで現役を続けますが、そのまま野球人生を終えることとなりました。
別格。2002年、抑えの河原
全盛期時代の河原は本当にすごいピッチャーでした。
ストレートの伸び、そしてスライダーを中心にした変化球は三振の山を築きます。
打たせて取るようなピッチングではなく、ボールにあたらないんです・・・
*出典:Youtube
解説の江川が「あ~、今日の河原からは絶対に打てないですね」というようなコメントもしているほど。
容姿もスラっとしていて、顔立ちも整っていました。さらにポーカーフェイスでとにかくカッコいいピッチャーでしたね。
現在の河原が明かす「野球選手になりたいと思わなかった」
2016年、河原は週刊ポストの取材で次のように語っています。
「プロ野球選手が僕に本当に一番向いた職業だったのか、今も疑問に思っています。」
「小さい頃からプロ野球選手になりたいとは一度も思わず、会社員になりたかったんです」
「規則正しいリズムの生活にあこがれていました。ナイターとデーゲームがあるプロ野球の世界は本当に嫌でした」
プロ野球選手になっても派手に飲み歩いたり、高級腕時計を付けたりすることがなく、30歳になっても寮生活を続けていたほど。
巨人に入団した河原は、初年から結婚をし、さらにスピード離婚。
少し派手な印象を受けてはいましたが、現在のプロ野球選手の中でも河原ほど地味でサラリーマンタイプの選手はいないのではないでしょうか。
次のページでは現在の河原を紹介します。